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それでも心が「NO」と言う

2016.11.7

素朴な疑問。「なぜ、人を殺してはいけないのか」。もし、小さな子供に質問されたら、どう答えるだろう?
法律で決まってるから。
警察に捕まっちゃうから。
このあたりは、パッと思いつく。これらはしかし、人を殺してはいけない理由の、答えになっているようで、なっていない。法律で許可され、罰せられないのなら、人を殺してもいいのか?

日本には、殺人を許可していた時代があったようだ。話に聞いただけだったので、調べてみたら、本当にあったらしい。

敵討(かたきうち)、または仇討ち(あだうち)は、直接の尊属を殺害した者に対して私刑として復讐を行う中世日本の制度。武士が台頭した中世期からの慣行であり、江戸期には警察権の範囲として制度化された。基本的に、子が親の仇を討つなど、血縁関係がある目上の親族のために行う復讐を指した。
Wikipedia

上記ページには、『江戸幕府によって法制化されるに至ってその形式が完成された。』とある。

小さな子供に、どう答えたら納得してもらえるのかはわからない。よく聞く回答として「未来を奪うから」というのがある。私が答えるとしたら、これが一番近いかもしれない。

「なぜ、人を殺してはいけないのか」は「なぜ、私は生きるのか」と、リンクしているように思う。だとしたら、死なないでいるために生きる意味を探し続けていた頃には、答えが出せなかったのもうなずける。
自分が生きていることに意味を見出して初めて、他の人を殺してはいけない理由を持てた気がする。

私たちは、生きなければならない。なぜだろう?
これもよく聞く回答だけど「学ぶため」だと、私も思う。それ以外の答えを探してもみたのだけど、どうもイマイチしっくりこないのだ。ただし、私の言う「学ぶ」とは、世に言われている意味とは少し違うのかもしれない。

私は、自分を学ぶために、今現在生きている。どういうことかというと、本来の自分・本当の自分へと至る道を探しているようなものだ。
人は、成長の過程で社会のルールを学ぶ。ルールに沿って生きるために、閉じ込め、抑えつけ、忘れてしまった、本来の自分のさまざまな部分がある。これらを、取り戻すと表現するのがいいのか、新たに創ると言ってもいいのだと思う。
習慣として身についた考え方や言動、これらは本当に私のものなのかを見ていくと、心が「No」と言う。古くなったルール。もう必要でなくなったルール。誤解して習得してしまったルールだってある。それらを、大人になった今、重ね着のように分厚く着込んでいるように感じる。成長は「脱皮」と例えられることもあるね。
脱いでいきたい。本当の・本来の自分に還りたい。心が「Yes」と言うようになるまで。

成長という言葉も、その段階によって何を指すのかが変わる。ある程度の大人になってからは、より内側へと向かって行っているようだ。
人は誰でも、いつの段階でか、それまで身につけたものを整理するときが来るのだと思う。
ミッドライフ・クライシス(中年の危機)と呼ばれるタイミングも、あるようだ。

「なぜ、人を殺してはいけないのか」に対する私なりの答えは、「その人が、その人になっていこうとする過程を止めてはいけないから」。