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セルフ2|私自身がいかなるときも影響されない唯一の存在

2017.3.6

心理学のひとつ、サイコシンセシス(統合心理学)に特有な、人間とその心の捉え方ご紹介しています。
これまででは、『サブパーソナリティ』の説明をひと段落し、セルフ1|気づいている“私” からは、『観察者』や『体験する者』などと呼ばれることもある『パーソナル・セルフ』(以下“Pセルフ”)について、ご紹介しています。
興味のある方は、以下リンクからご一読ください。

はじめに

Pセルフについてのご紹介を、私自身、ためらっている部分があります。
私の“責任感の強いサブパーソナリティ”が、こう言うんです。「自分でもまだよくわかっていないことを、紹介なんてしちゃっていいの?
さあ、こうして自分が“ためらっている”のに気づいたことで、私はその部分から脱同一化し、それの言うことを聞くことができました。

そして、私は別の部分で「セルフの紹介を知って欲しい」と思っているんです。その、望んでいるサブパーソナリティは、なんと言うでしょうか?
知っていることを書きなさい。体験したことを書きなさい。それならば“自分”の範囲でしょ?」 …ああ、これは、望んでいる部分ではなく、他の“許可する”サブパーソナリティですね。

なんていうふうに、私は、サブパーソナリティに気づくようになってから「なんて忙しいんだろう」と思いました。
しかし、忙しいと思っているのも“=私”ではなく、“私の中の一部分”であるサブパーソナリティです。

Pセルフは、静かに、あたたかく、それらを見ています。

パーソナル・セルフとは何か?

まず、Pセルフになぜ「パーソナル」と付いているのか、です。

パーソナルという言葉は、個人的、人格的と訳されますが、人としての身体をもち、社会的存在であり、現実的レベルでの、そして個人のレベルでのという意味です。そこで、パーソナルセルフとは、そういうレベルでとらえる自分の中心ということです。
セルフは、人格の統合センターです。これが、現実レベルでの自分のアイデンティティの中心、本当の自分ともいえます。
平松 園枝『好きな自分、嫌いな自分、本当の自分』 

次に、核心へ行きましょう。「Pセルフとは何か?」

セルフとは、通常私たちを他の人間や宇宙の他の部分から区別し、「私」の感覚を与える要素として、従ってまた、私たちを固体として存在させる要素として考えられています。
P.フェルッチ『内なる可能性』 

上記引用から、“自我” や “自己”を想う方もいらっしゃるかもしれません。自我や自己を“エゴ”と言いますが、

セルフは一般に考えられている「エゴ」とは区別されます。「エゴ」にはプライド、利己主義という意味が暗に含まれ、自分の栄誉、出世などに関係しています。セルフには特性がありません。セルフは内容をもたない純粋な意識です。セルフは、意図、選択、意志のエネルギーの根源なのです。
M.Y.ブラウン『花開く自己』 

こうなると、もう頭ではわからない。内容をもたない、エネルギーの根源である『純粋な意識』とはなんでしょうか? これについては後述します。

セルフの概念は外的な所困難、内的な苦痛に直面しても、なお「中心」にとどまることができる人びとの体験を説明しようとする試みです。この体験は存在の体験です。身体、感情、思考の変化にも動揺しないで、常に意識的であり、選択が可能であるという体験なのです。
M.Y.ブラウン『花開く自己』 

前回、Pセルフは自然と「これがそうだ」と体験されるものではなく、トレーニングなどによって『経験を誘い出す』ことができるものだとご紹介しました。
ここで注目していただきたいのが、「わかる」という言葉を使っていないところです。「体験」ないし「経験」という言葉を用いています。この違いをご理解いただけますか?
私個人は、この違いを、頭で理解するものと、身体などの感覚で感じ取るもの、と、わけています。つまり、どんなに頭で考え理解しようとしたところで、Pセルフを “体験” も “経験” も、できないのかもしれないなぁと考えています。

nao
ここまでで、しっかりと煙に巻かれていただいたでしょうか?

それでもなお、Pセルフを見出すと、どんなイイコトがあるのかを知っていただきましょう。

パーソナルセルフから得られるもの

セルフは永遠に同一であり続ける、私たちの唯一の部分として定義することもできます。この同一性こそ一度発見され、完全に経験されるならば、パーソナリティの他の部分を統括する永遠の要として、また私たちが平衡感覚や一貫性を回復するために常に参照できる内的根拠として作用するのです。
P.フェルッチ『内なる可能性』 

ブレたくないなら、Pセルフを頼みにするといいです。
何かに振り回されたくないなら、Pセルフをしっかり据えるといいです。

セルフは喜びの中でも絶望の中でも、平静な時でも混乱していても、快不快、勝利と敗北いずれの時にも変わらないものとしてあり続けます。
P.フェルッチ『内なる可能性』

心の平穏、静けさ、穏やかさが欲しいなら、Pセルフと同一化できるようにするといいです。

身体感覚は変化し、感情は消え、思考は流れ去っていきます。しかし、誰かがこの流動を体験し続けています。この体験している「誰か」こそセルフ、体験者なのです。
P.フェルッチ『内なる可能性』 

nao
以下は、辛辣に響くかもしれません。デリケートな方は、飛ばしてください。

身体を頼みとしても、病気にかかることもあれば、誰でもが必ずやがて老化し動けなくなっていきます。美しい容姿も衰え、心ない流行り言葉に「劣化」があるように、私たちはいつか無価値であるかのように感じ始めるでしょう。
他者との比較によって植えつけてしまったコンプレックスや劣等感や、その裏返しとして優越感を感じることもあるでしょうけれど、ふと我に返って自己嫌悪に陥ったりするでしょう。ジェットコースターに例えられるように、幸福の絶頂から地獄のような苦しみ・悲しみを味わうこともあるでしょう。
さまざまな日常的な事柄に頭を悩ませ、自分自身の考えによって不安や心配やつらい気持ちになったりすることもあるでしょう。

nao
キツイことを言いました。言い過ぎであったなら、申し訳ありません。

現実に生きている私たちの、ただひとつの常変わらぬ永遠━━内面の静けさと穏やかさ、あたたかさと明るさ━━があるとしたら、それはPセルフです。

セルフとは意識の本質的な状態で、つまり薬剤などの影響のない純粋状態における存在であると言うことができます。また、あらゆる心理的衣服━━思考、感情、表象、感覚━━を脱いで、純粋存在だけが残るという、心理的な意味で裸体の状態であると言えましょう。
P.フェルッチ『内なる可能性』 

私個人の見解ですが、禅や瞑想やヨーガなどが目指すのもこの状態ではないでしょうか?
なぜ、多くの人が、例えば禅であれば『無』でしょうか? ヨーガなら『調和』、瞑想では『本質』でしょうか? そこへ辿り着こうとするのは、なぜでしょうか?
これもまた、私個人の見解でしかありませんが、私たちは「全体」「全人的」「ホールネス」を目指しているように思えます。平たく言えば、一体感。もっと現実的で流行りでもある言葉で言えば「つながり」に、なるのかもしれません。

私は私として“ここ”にあり、その上で、取り込まれるでも統率されるでもなく、全体とひとつでありたい。突き詰めていくと、そんな願いがあるように感じます。

nao
あくまで、私個人が感じているということですが。

さいごに

今回は、得体の知れない、雲をつかむような話だったかもしれません。
頭での理解でなく、ぜひ体験し経験して行っていただきたい、このPセルフについて、まだまだ続きます。

次回は、もう少し具体的・現実的な話をできればと思います。

余談:
セルフを知って欲しい」と望んでいるサブパーソナリティは、「ゆるされるという感覚を体験して欲しい」と望んでいました。「ゆるされると、どんなふうに感じるか、言葉にはできない気持ち、身体で感じるかんじを」と。
ここで言う“ゆるされる”とは、言い換えれば “存在の無条件な全肯定”です。
私はそれで、涙がこぼれるという体験をしました。安心とも、安堵とも、嬉しさや喜びや…そういったものとは、また違う。ただ感動と言うにも、なにか似つかわしくない。
“解放”とは、こういうことを言うのか、といったようなかんじです。