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感じない?それとも外在化する?なら、後者を選びたい。

2017.4.14

手を怪我して、3日。PCさえ立ち上げず、でも“廃”なので、Twitterだけはどんどんツイートしてた。
スマホが重かった。心ここにあらずだった。

普通に暮らすのとは、違う部分なのかもしれない。
筋肉痛になってみると、普段こんなところの筋肉を使ってるのかと驚くことがある。
気持ち、心の使い方も、そんなかんじ。
ごく普通に生活していると、あんまり使ってない部分があるように感じる。

感動、してる?
心が震えるのを、比喩ではなく、感じたことはある?


引越しを控え、一刻でも早く治して荷物を詰めなきゃと思ってるので、可能な限り手を使わずにいた。
キーボードを打つ自信がなかったのもあったけれど、大丈夫じゃないか。こうして打ててる。
それだけでも感謝するよ。心から、ね。


心を動かしていないと、生きているとは言えない。みたいになっちゃった。感情を取り戻してから。

「生きるとはなんだ?」改めて考え込んだようにつぶやいた知人へ
「感じることだよ」間髪入れず、口から出たのを思い出す。
あの頃、幼児が何にでも興味を持つように、新鮮に感じていた。感情というものの、鮮やかで豊かな色彩。

生きるとは? 今は、別の応え方をするかもしれない。
でも、きっと、感じることも含まれている。


怪我した瞬間から、頭ばかりを使っていた。それも、自衛本能なのだと思う。
パニックに陥らないように。
泣き出さないように。
主人を、必要以上に心配させないように。

怖かったし、心細かった。

病院で医師が「縫おうか」と言ったのに、「縫うんですね」と応じたとき、初めてうるっとした。
どうして、そこだったのかわからない。


かつて、感情を閉じ込めたのは、つらかったから。自分が感じるものに堪えられるだけの、心の力がなかった。
感じ過ぎる、とは、そういうことだ。
人と比べての問題ではなく、本人が何をどう感じ、それを感じることに堪えることができるかどうか。
言い換えれば、持ちこたえることさえできれば、どんなに感じても “過ぎる” ということは、ないのかもしれない。


今回、だいぶ心の力がついてきたなぁと確認することができた。
始終冷静でいれらたわけではなく、適切な判断ができたわけでもないけれど、意識的に気づく状態へと戻るのが早くなったのだ。
気づくことができれば、コントロールが可能になる。
本当にね、日常の中で少しずつ、訓練してきてよかったと思ったよ。

思いがけないことが起こったときの一つの例として、記録を残すつもり。
怪我がどんなか、というんじゃなく、コトが起こったとき、どんな反応をしたか。
自分の考えが自分をどう制限するか━━このブログではまだ紹介できていない、スキーマや禁止令に関わるものを━━ちょっと拾えたので、具体的にしておこう。
もう途中まで、下書きはしてあるの。


なんにせよ、手が動いてよかった。
心の動きを、手を動かして記録しておく。
絵を描くでも、歌うでも、踊るでも、話すでもいいんだけど、私はブログに書くことを好む。
こうして身体から外へ出し━━認知行動療法の用語で『外在化』と言う━━ていくことで、私は、感じることに堪えられる。

どんなつらくとも、もう感じないようには、したくない。外在化し、堪えていくでも、感じる方を選びたい。

もっと、もっと心の力がつけば、保持━━外在化などの表現をすることなく、秘密を守るみたいにして ずっと保つこと━━も、できるようになる。