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当たり前にしていたことが、できなくなったときには…

引越まで二週間を切った。
手を怪我して、ささいなことに不便を感じる。痛みより、不便さを感じてる。
利き手ではないし、まったく使えないわけでないから。
最も不便さを感じるのは、雑巾絞りができないこと。イラッとしそうになるたびに、理性的なサブパーソナリティが言う。「今は、普通のことが普通にできなくて当たり前でしょ?」

もっと歳をとって身体がきかなくなってきたら、こんなふうなんだろう。
当たり前にしていたことが、できなくなるというストレス。
予行演習みたいなものだなと考えて、興味がわく。

気持ちと、身体と、どう折り合っていくのだろうか?


当たり前にも、二種類あると思う。
① 自分が、普段はしていること。
② 自分だけでなく、普通は、するものだと期待されること。
後者に関しては、その個人の「期待されているに違いない」や「“みんな”していることだから」といった思い込みも含まれている。


怪我をした当日から、ほぼ一週間、料理と食器洗いをしなかった。主人が「やらなくていい」と、はっきり言ってくれたおかげもあって、それほどの罪悪感等を感じることなくいられた。
申し訳ない気持ちには、なった。自分の不注意が原因だから。しかし、最優先事項を「最短で治癒」と定めておいたので、そこへ向かうよう、気持ちをコントロールしたところは、あるかもしれない。

怪我の直後、これからのことについては、現実を確認することから始めた。
家事は、主人ができる人だから、負担ではあるものの、大丈夫。
犬の散歩は、過去に一週間しなかったこともあったのだから、大丈夫。
頭の中のチェックリストを、ひとつずつつぶしていった。
どうしてもしなければならないのは、荷物詰めだけ。それにしたって、残りの日数と進捗状況をすりあわせ、あわてる必要のないと納得できた。


やらずにいられないのは、こうして書くことなのだけど、一度更新できたら満足し、PCを立ち上げる気にならなかった。
その代わり、ツイートが増えた。元々多めなのだから、と、自分に言い訳してた。

怪我したときの記録。メモしてあるのを整理したいと思わないのは、どうしてだろう?
日が経って、新鮮味が失われたのもあるけれど。それだけじゃないのを、呆然と感じている。


ともあれ、一週間が経とうとしている。
傷は、まだ生っぽいかんじだけれど、軽い作業から再開してる。
当たり前にしていたことが、できなくなる。いつかやってくるそのときには、歳だからとあきらめるのではなく、別の気持ちの持ち方ができるのだということを予習できた。