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心は震えるんだよ

生物の教科書にカエルの写真があった。私、世の中でたぶん一番カエルが苦手。見ることができない。
教科書の、そのページをのり付けして、間違っても開かないようにした。我ながらナイスアイデアだと思った。
と、いう過去があって、生物はその辺りで放棄した気がする。

義務教育の段階で放棄した、生物。当然、基礎知識も身についていない。だから生き物について語ることは、私にはできない。
でも、物語としてなら、どうだろう?
想像することは、得意。物語として、語っちゃおうかな。

生き物には、自らの命をながらえる本能があるのだと聞く。マズローの欲求段階の最下位には、生存という欲求が置かれている。私たちは、なんとかして生き延びようとするんだよね。

不快を感じ取るのは、生き物として必要なことであり、重要なこと。
快を感じることよりもね。

生き物である私たちの原始的な感覚に、快と不快がある。
快は、良好な状態にあることを意味し、赤ん坊のニパーっと笑うのは「OK」のサインだと聞いたことがある。あれって、嬉しい・楽しいみたいな感情というより、サインなんだって。
一方で、おしめが濡れていたりお腹が空いていると、赤ん坊は泣く。不快感に。

不快とは、ともすれば命が危険にさらされる、というサイン。
例えば、かゆみ。たしか、軽い炎症だと聞いた。軽度の炎症は放っておけば治るのに、なぜ私たちの身体はサインをよこすのか? もし悪化すれば命に関わる、と教えてくれるんじゃないだろうか。
かゆみは、無視することもできる。しかし時として、かゆみが続き、私たちの意識はストレスとして認知する。命にかかわるかもしれないから、対処しろってことだよね。
私たちは、私たちの身体は快適な状態にあることを望む。

私たちには、生き物として自分を生かそうとする絶対の本能がある。命を守るために生まれつき備わっている感覚としての快と不快があり、不快は危険のサインであるから、快より不快により敏感であろう。


生き物が本能としてもっている快と不快。これは、感情とは呼ばない。
なんと呼ぶか? 感覚と呼ぶ。
目が見えるのは、視覚を備えているから。みたいに、私たちの機能として備わっている、感覚。

私は発達心理学をかじってさえいなくて、ゆえに、の素朴な疑問なのだけれど、私たちは、私たちの感情はもともと備わっているのだろうか?
喜怒哀楽を、生まれたての赤ん坊でも感じるのだろうか?

私個人としては、否だと考える。
否と考えるようになったきっかけが、赤ん坊のニパーっと笑うのは「OK」のサインと聞いたことだった。
そして裏付けは、私自身の経験。
経験だけからモノを言ってるわけで、これが正しいかどうかはわからない。単に、私はこう思う、というだけのことをつらつらと語っている。


私には、感情を、それとは知らずに殺していた頃があった。自分の内にある醜さを見たくなかった。見たくなかったというより、耐えられなかったと言った方が正確だ。
一番は、嫉妬。
視覚的イメージの強い私は、それをタールのようにベトベトして真っ黒な蛇として見た。
自分の身体の奥深く、ずるずると這い、とぐろを巻く蛇。そんなものを抱えるの無理だった。
その後、拒絶しようとしたのが、怒り。爆発した後の罪悪感はもちろん嫌だったし、普通から怒りへと振り切れるかんじに疲れた。
感情の起伏の激しい子とは、私のことだった。

紆余曲折あって…の部分は省くけど、感情を取り戻してみて、直後しばらくは、ひどく疲れた。
薄暗く、視覚的にも肌感覚的にも刺激のない狭い室内から、真夏の真昼間の都心へ出たのに似ている。
渋谷のスクランブル交差点を知ってるだろうか? たくさんの人の速い動き、街の音、様々な色と匂い。そんな所に、慣れてもいないのに、突然放り出されたら、どうなると思う?
想像ができるだろうか?

よく、泣いた。
刺激が強くて耐えられなくて。
これは、おしめが濡れて泣く赤ん坊と変わらないかんじなのだと思う。幼児の「いやいや」と変わらないかんじなのだと思う。
単なる、刺激に対する不快の表現。

私たちに備わっているものに、“慣れ”がある。耐性がついていくんだよね。感覚的刺激に耐えられるようになっていった。
その次に起こったこと━━次というより同時にあったのだろうけれど、意識できたのは感覚的な耐性がついてきてから━━が、興味深い。
心が震えるのを、身体で感じるようになった。

心は、震えるんだよ。比喩ではなくて、ね。


「愛とはなにか?」昔、父に問うた。
よろこびとは? かなしみとは?
これらのものに、答えはない。私たちは、少なくともまだ、これが答えだ!というものを発見していない。
いろんな人がいろんなこと、言うけどね。

私たちに備わっている感覚は、発達する。赤ん坊をイメージするとわかりやすい。
グーに握りしめていた手を、自分の意思で開くことができるようになり、ギューっとしか握ることができなかったのを小鳥を殺さないぐらいに加減できるようになり…例えとしては、あまりいいものじゃないけれど。文字を書くのとか、どうだろう?
繊細な感覚を理解し、コントロールできるようになっていく。

単なるサインとしての笑顔ではなく、ちょっとしか嬉しくないときは微妙な笑い顔をしたり、すごく嬉しいときは満面の笑みだったり。
感情は、どうやって覚え、どうして発達していくんだろう?
わからないけれど、感情もまた、発達していくのだということは、経験的に知っている。

感情は、グラデーションだと感じた。取り戻してみて、ね。
ごく普通の喜びがある。嬉しい!という喜び。
胸の奥深くからこみあげてくる、無上のよろこびがある。天にも昇る心地とは、あのことだろうか?

科学的に、脳で分泌されるなんとかという物質がどこどこにこう作用して…と説明することは、できるらしい。
けれどね、その感覚を、再現して他者に伝えたり教えたりすることは至難の技なのだと思う。
できるなら、やりたい。
私が心を震わせるとき「感動した」とかいう“言葉”では表現さえできない、その深みを知って欲しいと望み願う。


赤ん坊が学習していくように、私たちは、感情を学習する。
覚え、知れば、するだけ感情もまた発達し、進化し、分化していく。グラデーションのように。
愛の、温度や深さや透明さや尊さを、私に教えてくれたのは、犬 Sivaだった。なにものにも似ていず、すべての根底にあるような、このかんじ。
これ、でも、もしかしたら、感情じゃないのかもしれない。むしろ感覚に近いかんじがする。

…ありゃりゃ。感覚とは? 感情とは? を、ちゃんと考えてみなくっちゃ。
まぁ、なんにせよ、私たちは感覚を鍛錬するように、感情をも豊かにしていくことができるようだ。
お気に入りの感情は? どんなことが心地いい?
嫌いな感情は? どんなことを避けようとしてる?

怒りも嫉妬も、この世の中でもっていてはイケナイもののように扱われている。
言っておきたいのは、どんな感情でも、感じてイケナイものではないということ。
感じないようにしてしまうと、いつまでも未発達で未分化な状態のままで暴走する。

私が感情の抑圧を始めたきっかけとなった黒い蛇=嫉妬は、結局、憧れだった。
認め、受け入れ、存在をゆるすと、ヨコシマであったものでもちゃんと昇華するんだなぁという、貴重な体験ができた。


私たちには、生き物として自分を生かそうとする絶対の本能があって、命を守るための快と不快があり、不快は危険のサインであるから、快より不快により敏感かもしれない。
不快な感覚は、感情的な嫌悪感を誘発し、私たちの心と身体は否定的なストレスを受ける。危機の警告だ。
これ、生物の本能の部分。

私たちは、生物であり、その上に、人間なんだよね。
人間の、人間らしさって、なんだろう? ひとつに、豊かな感情を挙げたい。
よいものを感じ、心を震わせるのは、人間らしくないかな?

生き物である上に人間であるのだから、快の感覚やよい感情の方も伸ばしていきたいと思う。
こっちをより豊かに感じていくことができると、生きていることは素晴らしくなっていく。